2004年12月 2日

作れる、作る、作った

たまに「Namazu を作ったなんてすごいですね」と言われる。そう言われると、いつも違和感を感じる。同等のソフトウェアを作れる人ならざらにいるからだ。作れることは自体は全然すごくない。

 

では本当は何が評価されているのかというと、何かを作って公開し、それが比較的広く使われたことだ。作れる人はざらにいるし、同じようなものを作ってみようと考える人もそこそこいるけど、実際に作ってくれる人はなかなかいない。だから、作った人が登場するとありがたがられる。それが広く使われれば、より評価される。案外、自分ではたいしたことないと思っているものでも好評を博したりする。

文章でも同じことが言える。誰でもうすうす分かっていて、誰かが日頃から考えているようなことでも、それを書いてくれる人はなかなかいない。だから、書いた人が登場するとやっぱりみんな喜ぶ。それが広く読まれれば、より評価が高まる。読まれるために一流の書き手である必要は必ずしもない。

作れるのになぜ作らないのか、書けるのになぜ書かないのか、そのような理由にはいろいろあるが、そのひとつに、できるとわかっていることをやってもおもしろくない、自分で当たり前と思っていることを書いてもおもしろくない、という感覚がある。

科学者の世界では一番頭のいい人はたいした成果を出さず、それより頭の悪い人の方が成果を残すという話がある。なぜかというと、頭のいい人は先が見えてしまうので、やる前から飽きてしまい、頭の悪い人は、おもしろそう、と飛びついてやってしまうからだ。その結果、できる人ほど成果を出さないというジレンマがときおり発生する。

と、そんなようなことを、まあこんなこと今さら言ってもしょうがないか、などと言いながら食事をしていたのだが、上の主張に従えば、こういう誰でもわかっているようなことを書くのもときには価値があるらしいので書いてみた。

ところで、頭のいい科学者と頭の悪い科学者の話は寺田寅彦の科学者とあたまというエッセイで読んだ記憶があったが、今読み返してみると、上で引き合いに出した内容とはちょっと異なっていた。