2005年2月20日

ポール・グラハム論法

ポール・グラハムの「ハッカーと画家」はハッカー的な人間のための癒し系エッセイである。ちょうど、もやもやと考えていたようなことを気持ちよく代弁してくれる。

氏のエッセイを読んで感化された人間は、「ポール・グラハムも言っていた」という一言を自分の主張に加えるという誘惑にかられる。虎の威を借りる作戦である。

 

これをさらに押し進めると、ポール・グラハムが言っていないことでも、ポール・グラハムが言っていたことにするといういかがわしい論法にたどり着く。「100論文は1ハックに如かず、とポール・グラハムが言ってたよ」という具合である。

「100論文は1ハックに如かず」はめちゃくちゃだが、ハッカー的な人間にとっては一理なくもない。ポール・グラハムも言っているように、大学などにいるハッカーは、論文を書かなくてはという強迫観念にかられ、結果として、ハックの手を止めてしまう。これは社会的な損失につながる。多くの場合、彼らの論文よりも、ハックの方が社会の役に立つからだ。

論文は小数の専門家にしか読まれない。ごく一部の論文は世の中に大きな影響を与えるが、残りの大半はほとんど影響を与えない。正確に言えば、博士号の取得であるとか、大学内の昇進・雇用の維持であるとか、学会の存続であるとか、そういうことには役立つ。一例として、情報処理学会の論文誌に論文を掲載するには別刷料という名目で掲載料を支払わなければならないが、これは読者よりも載せる人の利益の方が大きいからだろう。

一方、ソフトウェアやサービスの形で外に出されたハックは、論文よりも多くの人の手に届きやすい。ユーザは実際にそれを使って役に立てることができる。既存のソフトウェアへのパッチも役に立つ。ここで、何らかの形で「外に出された」という点が重要である。ハックするだけでは自分以外の役には立たない。外に出してはじめて価値が生まれる。

通常、大学の情報系の研究室は「研究して論文を書くべし」という方針で運営されている。そして、学生はそれに付き合わされる。しかし、ハッカー的な学生はそのような方針はほどほどに受け流して、じゃんじゃんハックもやってよい、というのがポール・グラハムの新作「ハッカーと学生」での主張である。

もちろん研究室の方針を完全に無視するわけにはいかない。研究して論文を書く、という過程で身につく専門知識や研究の方法論は得がたいものだ。しかしながら、成果として出てくる論文は価値のないものがほとんどであることも確かだ (誰も読まない卒論、修論の山)。

つまり、訓練としては意味があっても、成果を出すための活動としては極めて非生産的ということだ。訓練はインプットを得ることであり、幼稚園の頃からやっている。大学生にもなれば、もっとアウトプットに力を注いでもいいだろう。誰も読まない論文が唯一のアウトプットではむなしすぎる。

中にはすごい論文を書く人もいるし、論文もハックもすごい、という超人もいる。しかし、ハックしかできない学生に無理に論文を書かせても非生産的なだけだ。不得意なことで成果を出そうとしても無理である。そういうハッカー的な学生は、論文は訓練として割り切ってほどほどに取り組めばよい。そして、じゃんじゃん得意のハックをしてどんどん外に出していこう。その方が断然生産的だし、社会の役に立つ。ポール・グラハムもそう言っている。


追記

この記事は、私が過去と現在に見てきたハッカー的な学生に向けて書きました。ハックは得意だけど論文は不得意で、論文を書くべし、という研究室からのプレッシャーに悩んでいる、というタイプの人です。この記事で書いたような意見は大学の中ではあまり聞く機会がないと思うので、やや大胆に書きました。

論文だけが成果を出す手段ではない、ということとと、論文でもハックでもブログでも何でもいいから自分が得意なことで成果を出していこう、ということが主旨です。

研究室では居心地の悪い思いをしていたけれども、ベンチャー企業にアルバイトで入った途端にハックの能力を発揮してばりばりと成果を出し始めたという人を何人か知っています。自分が活躍できる場所を探していくことも大切ということでしょう。

ただ、博士課程の人や将来アカデミックな世界に残りたいという人はやっぱり論文ははずせないと思います。念のため。